時事ネタ連発


今日は、珍しくヒトコト述べたい時事ネタが多かった日でした。



・自殺持ちかけ女性殺害
http://www.tokyo-np.co.jp/00/detail/20050805/fls_____detail__051.shtml


自殺サイトに「自殺したい」と書き込んだ女性を呼び出して殺した、というこの事件…
時々、大人と若者の討論番組みたいなのがありますが、若者の中に「どうして人を
殺しちゃいけないんですか?」
などとホザく「頼むからお前が死んでくれ!」
心の奥底から力の限り叫ばずにはいられない、ミミズ並みの大バカ様がたまーに
いらっしゃるのですが、もし自分だったら、この問いに「誰も『死にたい』と
思って生きてはいないからだ」
と答えます*1
凡人だったら誰だって死は怖いはず。いつか死ぬのはわかっているからこそ、その日が
来るまでは、と皆頑張って生きている。ホームレスの人達が人間の尊厳を失ってまでも
生きているのは『死にたくない』からに他ならないからだろう。
自分より弱いものを喰わなければ死んでしまう野生動物ならともかく、『死にたくない』と
思っている人間の命を奪う権利など、決して誰にも存在するはずないのだ。


…ちょっと話が逸れましたが、もし自分の目の前に、前記したような他人の気持ちを
理解しよう、という気持ちがミジンコほども無い若者が現れたなら、常々自分は
「どうしても人を殺したいなら、本人が『死にたい』と望んでいて、しかも
その人が死んでも確実に誰も悲しまない、という人間を見つけろ! そういう人間を
殺して始めて『どうして殺しちゃいけないんだ?』とホザけ! それなら誰も文句
言えねーから!」
と言ってやろうと心に決めていた。
しかし、実際に『死にたい』と思っている人を殺した、という事件が起こってしまった…
今回の場合、殺された人達には悲しむ家族が存在したのだから、裁かれて当然の事件だ。
でも前記した通り、もし殺された人が天涯孤独で、悲しむ人間が誰もいなくて
それでいて本人が『死にたい』と望んでいたのだったら、正直言って私は犯人に
「何で殺しちゃいけないんだ?」と聞かれたら答えることができないと思う…。


喩えは悪いけど、高齢者夫婦の片方が寝たきりになってしまい、介護されている側が
介護している側に「殺して」と頼み、実際に殺してしまった、という痛ましい事件は
良く耳にする。そして、私の記憶の限りでは、こういった場合は情状酌量でかなり刑が
軽くなっていたと思う。「長年連れ添った夫婦」と「出会ったぱかりの赤の他人」という
かなり大きな違いはあるが、『死にたい』という人を殺した、という共通点があるので
今回の事件は通常の殺人事件より罪が軽くなるのだろうか…。(自分はワリと
ハッキリとした意見を持っている人間だと思っているのだが、今回の事件に関しては
どうしても答えが出せない…)



・7年間、素手で給食強要
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20050805/eve_____sya_____003.shtml


確かにヒドい事件ですねぇ。ただ、30歳以上の人間だったら「自分はこれよりヒドい
仕打ちを受けてた」
と思わず言いたくなる人は、自分も含めて大勢いると思います。
(弱い立場の子供の人権が守られるようになってきているのは、良い傾向ですが)
自分も給食には泣かされたなぁ。しかも、食べ終わらなくて自分の昼休みが潰れるのは
仕方無いけど、ある時期の担任の方針は“連帯責任”で、班の1人が食べ終わって
いなければ、班の全員が食べ終わるまで待たされてたんですよ。あれは心苦しかった…。
なので、どーしても食べられない献立が出た時は、手が滑ったフリをしてワザと
床に落としたりしてたなぁ…(無理して食べて、後になって吐いちゃう子もいたな)。
そんなイヤな思いをして無理矢理食べさせられた食べ物は、未だに苦手です。
どーせ大人になったら、好きな物しか食べないのだから、嫌いなものを強制的に
食べさせるのって意味があるんですかね? ←こーゆーコトを言うと「日本は
食べ物に不自由してないからそんな甘えたことが言えるんだ」とか言われそうですけど
私だって基本的には「食べ物を残すのは悪!」だと思ってますよ。ただ、
上から押さえつけて、高圧的な態度で強制する以前に、教師の側も「食べさせる」努力が
必要なんじゃないか?と思うんです。(それに、極限状態になったら皆嫌いな物でも
食うよな)


ある時期の担任は、余ってしまった給食を楽しく食べさせようと、色々と工夫をしていた。
例えば、ご飯が余ったらその先生は「おにぎり」を握ってくれた。お腹一杯なはずなのに、
その先生が握ってくれたおにぎりは皆で奪い合いになった。又、欠席者が多い日に人気の
あるメニュー(プリン等)が余ったら、それをエサに「余った給食食べてくれた人には
このプリンもあげるよ♪」と、子供心をくすぐるセリフで、上手い具合に「おかわり」を
促した。そして何よりこの先生は、前記の先生のように連帯責任などせずに、昼休み一杯
使っても食べ切れなかった子供にに対しては「頑張ったね、もういいよ」と言ってくれる
先生だった。
子供なんて単純だ。褒められれば嬉しいし、叱られれば落ち込む(大人だって
そうだよね)。そして敏感でもある。教師だってだけで、上辺だけの中身が無い理屈で
押さえつけようとしたなら、子供が反発するのは当然だ。この事件を起こした教師には
どうして給食を全部食べられない生徒がいるのか、色んな意味でよーく考えてみてほしい。


この事件に便乗して、自分の小学校時代の辛い思い出を吐露しちゃお♪ 辛いことって
溜め込むより外に出した方がいいもんね。
自分が小学5・6年だった時の担任は、今の時代なら確実に新聞沙汰になるであろう
かなりの“暴力教師”で、皆が嫌っていたと言っても過言は無いと思う。
自分が今でも忘れることができない出来事がある。学芸会の話し合いか何かで、
学年集会が体育館で行なわれた時、意見を挙手して言い合う場面で、私は他組の先生に
何か生意気なことを言ったのだ。そしたら、担任がいきなり私の頭上に手加減無しの
強力なゲンコツを一発食らわせ、服の襟元を後ろから掴んでイスから引きずり落とし
そのまま体育館の隅まで私を引きずって、正座をさせ、往復ビンタを食らわせたのだ。
(あぁ、こうして書くと未だに体が緊張で強張る…(もう20年は経つというのに))
確かに私の態度は生意気だったと思う。でも、これほどの屈辱を受けるほどの
態度では無かったはずだ、と今でも思っている。
ついでにもう一つ。運動会のダンスの練習を体育館でしていた時、その担任から事前に
「踊ってる時にしゃべった奴はビンタだぞ!」と言われていたのだが、ダンスの最中に
自分の手が友人にぶつかったので「ゴメンね」「ううん、大丈夫」程度の短い会話を
かなり小声で交したのだが、そんなささいな会話すら許されず、我々はお約束通り
往復ビンタを食らったのだった。静かな体育館に響き渡った、友人の顔が張られた
鋭い音は、未だに忘れられない。「私が声をかけなければ、友人はこんな目に
遭わずにすんだのに…」と、当時はかなり後悔しましたが、今改めて考えてみると、
悪いことをして謝ったことの何がそんなにいけなかったんだ?と思います。
小・中・高を通して名前を覚えている先生なんてほとんどいないのですが(情けない…)
この担任*2の名前だけは、未だにフルネームで覚えています…。
あぁ、思い出したら悔しくなってきた。訴えてやりたいけどとっくに時効ですよね(泣笑)



・『2016年五輪東京で』石原都知事
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20050806/mng_____sya_____005.shtml


まぁたこの利己的なオッサンが何か言い出したよ…。そんなに任期の間に自分の功績を
残したいのかぁ?(小泉純一郎みたいに)
高度成長期のオリンピックは、それなりに意義があったと思いますけど
ある程度成熟した今の日本(しかも東京)で、オリンピックを開催する意味がどれほど
あるんですか?
一時的に「オリンピック需要」が起こるかもしれないけど、起こったとしても
ほんの数年で、結局はオリンピック用に建てた施設の維持費の工面に苦労する、という
結果が待ち受けてるのは目に見えている。多分石原は、この辺りの問題点は次の都知事
丸投げするつもりなのだろう。
これから益々の発展を遂げていく都市なら、オリンピックを開催することで勢いが
つくだろうし、観光地としてのアピールができるので、歓迎する市民が多いと思うけど
大多数の都民はオリンピックの開催を歓迎しないと思う。前記した「施設の維持費」の
問題も含め、ただでさえ人口の過密している東京に、一時的であるとは言え
これ以上人が増えるのはカンベン、と思う人間が多いのではないだろうか。
少なくとも、自分が今も都民だったら「…いい加減にしろよ、石原(怒)」と、火のついた
タバコを石原家に投げ捨ててやってると思う。←ちっちぇえーっ^^;
札幌と東京で開催したのだから、次は九州地方でいいじゃん。福岡に譲れってやれよ石原さんよー。

*1:単純なことなのに、答えに詰まる大人がいるのには呆れる

*2:決して「先生」とは呼びたくない